昨日に引き続き今朝もゴルフの打ちっぱなしに来た。そして丘の中腹にあるゴルフ場を登っていくうちに車に何台も抜かされた。セダンにSUVに軽自動車に。。祝日でみんなやる事は同じなのか、とふと思った。そして現在、10時からの打ちっぱなしのスタートを待ってロビーに座っていると朝の情報番組が流れていてドラマの紹介をしている。これは誰が見ているのか、そして誰が作っているのか、そして誰のために作っているのか、なぜ流しているのか。昔は、10代のころはただ単純にストーリーが面白かったので食い入るように画面を見ていた。しかし今20年が経ち、ドラマは視聴者のためであると同時にテレビマンのため、出演者のため、スポンサーのため、制作会社のため…そしてそれぞれの人たちのKPIは何か、と考えてしまう。純粋さ、というのがなくなったのか、それともドラマという「フィクション」が幻(まぼろし)だとわかったからか。そしてフィクションは所詮フィクションで現実の偶有性の芳醇さの方が心を動かされるからだろうか。ただ、このフィクションが現実でもあることにも気をつけないといけない。そもそもこのゴルフの打ちっぱなしもあまりにも暇すぎるこの日常の時間を潰しために行なっている?そして今、消費税法の勉強をしているが、これも仕事の暇を打ち消すためにの暇つぶしでやっている。仕事を面白くなればいいもは思っているものの、これでいいのか。
人生はコンテンツと思っている人がインフルエンサーをしている。昔は自分自身を発信するのがテレビしかなかったのでごく限られた人物のみが人生は面白おかしく過ごしていた。そして大部分の人達は「そんな人生などない」と冷ややかに見ていた。そして今、誰もが発信できる社会になってこれから発信したものが主流の社会になるのだろうか。
もうロビーの前のテレビがノイズでしかない。そしてどうでもいいことが放送されている。ただこのどうでもいいことは私にとってどうでもいいことであって、自分以外のこの日本のどこかにいる人にとってはとても大事なことでもある。そしてこの放送を作っている人、電波を担っている人、ナレーションをしているひと、テロップを作っている人などにとっては人生をかけて作っている放送でもある。考えに考えて、自分の貴重な時間を二度と戻らない時間を使って作っている。それはSNSで発信している人も、いや全ての人がもう二度と戻らない貴重な時間を今、この1億2,000万人が使っている。いや地球規模では70億人が使っている。刻々と過ぎ去る1秒は70億秒が流れている。70億秒は何分か。60秒で割ると
と、ここで場面が切り替わる。打ちっぱなしはあっという間に終わった。そしてあまりにも熱中してしまって周りが全く見えなかった。次次に出てくるボールをただひたすらにら打っていく。周囲はどう自分が見えていたのだろう。多分、うるさかったと思われていたと思う。しかし打っている当人からするとあまりも面白くて熱中してしまい全くわからなかった。そして打ち放題の時間が終わってから冷静になって気づく。あ、もしかして自分は周りに迷惑をかけていたのではないか、ということに。
今までは九段下に住んでいたのでこの東京の変わりが全くわからなかった。いや、九段下に住んでいた、というよりも動いていなかったからかもしれない。こうやって横須賀から北上していくと横浜や東京に遊びにいく人、東京からバッグを持って浅草に行く人。本当に多種多様な人達がいる。自分が知っている、理解している、把握しているのはほんとに全体の一部というか一部にも満たない範囲なのだろうとすら思う。
勉強も実は壮大な暇つぶしで、試験に受かったとか偏差値がいくらとか、滑稽を通り越してなんかもう意味がないのではないか。それに人生を賭けるとかもうそもそもくだらない。それにまだ振り回されて、振り回されて終わる人生なのかもしれない。それもひとつのコンテンツか。
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